▶大道の歴史と昔の生活

大道の歴史については、公の文献・資料など残っているものが少ないため、地元の長老からの言い伝えや、大正に生まれ、子ども時代は大道の野山が遊び場であった父の廣瀬一雄が残したメモなどを参考に、主として昭和初期の大道の様子を纏めました。(廣瀬隆夫)

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■ 大道の簡単な歴史
大道は金沢八景や鎌倉とも近く、軍事的・経済的に大変重要な場所でした。大道の歴史は古く、鎌倉の東の玄関口として早くから開けました。

今から約850年前の1147(久安3)年に常福寺が開山され、大道一帯が同寺の領地(寺分)となりました。常福寺には行基作といわれる本尊阿弥陀三尊が祀られていました。1182(弘安5)年北条実時追善供養に称名寺本尊と共に祀られた形跡があることから平安末期の造像であることが明らかとなり、1992(平成4)年に神奈川県の重要文化財に指定されました。常福寺は、中世末以降に衰微し明治初期に廃寺となったため、今は宝樹院の横の阿弥陀堂に安置されています。

古文書によりますと、朝比奈峠の切り通しができる前は、鎌倉へ通じる道は二つあったようです。一つは諏訪社の前を通り、尾根伝いに朝比奈の熊野神社の左側の谷を下って、大刀洗から十二所を経て鎌倉に入る道、もう一つは大道の西、鼻欠け地蔵の手前を右に登り「おおだわら」という所を通り抜けて天園に至り、鎌倉に入る道です。切り通しが出来てからは、鎌倉へ塩を運ぶ塩商人が峠を越えて鎌倉に至ることが出来るようになり、大変便利になりました。

川村(字名)は、朝比奈峠が開かれてから宿場として栄えました。宿屋(橋本や、伊勢や、清水や)花屋、湯や、足袋や、うなぎや、床やなどが屋号として残っています。また、金沢八景を眺望する場所が、従来の能見堂から六浦周辺に移り、金龍院の九覧亭や鎌倉から金沢に入った道沿いにある光伝寺の裏山の並木天満宮が有名になりました。武陽金沢八景を眺めながら茶店で休息できる観光地として賑わったようです。

三艘は、平潟湾に近く六浦の津として栄え、唐船三艘が積荷(青磁の花瓶や香炉・蜀工錦等)を下ろしたことから三艘という地名になりました。また、唐船で運ばれた象が、六浦に着いた時には既に死んでいたため、村人がこの地に埋葬し「象塚」をつくったという由来があり「象が谷(ぞうがやと)」という地名が残っています。

明治には大道村は神奈川県久良岐郡六浦荘村三分字大道となりました。戸数は32戸で昭和初期頃まで変わりませんでした。1936(昭和11)年横浜市へ合併、横浜市磯子区六浦町になり、その後横浜市金沢区六浦町となり、横浜市金沢区大道となりました。

1940(昭和15)年頃から、近郊各地で戦争準備(軍事施設の拡張・移転)が始まり、大道も農地が埋められ、横浜・横須賀海軍の従業員住宅が建て始めました。1944(昭和19)年に六浦原宿線・相武隋道が開通し、大船・厚木へ通じる軍用道路となりました。この年に、大道国民学校(後の大道小学校)が開校されました。

■ 大道の地名
かつて金沢は三分村と呼ばれていて、社家分、平分、寺分から成り、社家分は瀬戸神社の所領で、瀬戸から瀬が崎にかけての地域、平分は川・三艘から室の木までです。大道は寺分に属しており、足利持氏の祈願所である大道山常福寺の所領でした。

1241(仁治2)年に朝夷奈切通しが完成した時に、大きな広い道に整備され、二間幅(3.6メートル)で当時としてはかなり広い道でした。このことから地名が「大道」になったと言われています。また、江戸時代の金沢八景の絵図では大道村近くに大きな橋が描かれていますが、これは現在の大道橋(別称:大橋道)と思われますが、大きい橋のかかる道ということで大道という説もあります。

大道に関所があったことは余り知られていませんが、荒廃する金沢文庫の称名寺の再建修理費を捻出するため、三年間に限りに関所が設けられ、人は二分、馬は三文の通行料を徴収したそうです。一文は今の貨幣価値に換算すると20円位です。人別(戸籍)を調べるということは行わなかったそうです。昭和初期まで関所跡が残っていたという話が残っています。

約600年の歴史がある製塩業は、明治初年までは盛んで、上行寺前まで砂浜で多くの塩場があり、人々の生活に欠かすことの出来ない塩の生産地でした。また、侍従川の清流と豊富な水に恵まれ、良質の美味しい米が採れました。その清流が運ぶ砂鉄で刀が作れることから刀鍛冶が住みつき、金沢各地で鎌倉武士の鎧・武具などの生産が行われていました。現在は、高舟台という地名になっていますが、地元では、高宗某という刀鍛冶が住んでいたことから、その字名に由来して「高宗」と呼んでいました。(「たかぶね」とも発音していたため高舟という漢字をあてたのではないかと推測されます)

■ 大道の地理
実際に昔の大道を歩いたときの記憶を頼りながら昭和初期の大道の様子をご説明したいと思います。

大道巡り歩きの旅は川の諏訪神社(現在のヨークマート裏手)から始まります。参道を登って右の山側が「ふらいどう」と呼ばれている場所です。大道は二間幅の砂利道を西に向かって歩くと左手に「大島屋」(現在のレストラン「ココス」の辺り)、道を隔てた向かいに酒屋「大道店」があります。道の両側は田圃が続き一部蓮田もあります。右手に川の光伝寺を見ながら、しばらく西へ向って行き(現在の大道小右側の道)小道を左へ入ったところが和田の谷戸です。入り口に「提灯屋」「和田」「紺屋」などがあります。提灯屋や紺屋は大道をはじめ六浦荘村全体の祭礼用提灯の張り替えと、祭り半纏の染め抜きで大変賑わっていました。和田の谷戸は三浦一族の杉本太郎吉宗の子の和田義盛氏の居住地に由来すると言われています。

砂利道を少し歩くと右側に大道集会所があって、左かどが小泉純一郎さんの祖父である又次郎さんの生家です。小泉家は名門で、浜口内閣で小泉又次郎さんが逓信大臣、その娘婿の小泉純也さんが防衛庁長官、小泉純一郎さんが郵政・厚生大臣に就任されました。追録ですが、小泉純一郎さんは内閣総理大臣に、子息の小泉進次郎さんは、現在、環境大臣です。このように子々孫々に渡って、わが国の重要ポストにつく偉人を輩出されたことは、郷土の誇りです。

この奥は杉の谷戸と呼ばれる場所で三軒の民家があります。さらに西に向かって左の谷戸に入るとその奥に屋台小屋と消防ポンプ小屋があります。その向かいに「ちょうさん」と呼ばれる店があります。この店は塩・味噌醤油・砂糖・酢を計り売りし、駄菓子や乾物などの食料品や雑貨を販売する大道唯一の店でした。この辺りが大道の中心で、道路沿に数軒の民家が点在します。その先を左折すると山へ突き当たります。この山を「堂山」といい、この山の入り口に常福寺跡があります。堂山に掘られた穴を「そこ免」と言い、関所で捕らえた罪人を収監した場所と言われています。来た道を引き返して長い階段を登ると大きなサルスベリの木がある宝樹院があります。境内の左側に常福寺の阿弥陀堂があります。

十字路を右に入ると山王様の参道です。木材商を営む「せど」を過ぎて更に西に行くと左に折れる小道があります。この奥が大水谷戸です。ここには三軒の民家があり、この谷戸は杉と雑木に囲まれた静かな山間です。(現在のスーパー横浜屋辺り)侍従川に沿って行くと川を堰き止めた大堰があります。大堰は、子どもが泳ぐことが出来るくらいの広さでハヤなどが棲んでいました。その先が堰の谷戸です。奥まで田圃が続く深い谷戸になっています。一番奥まった所に池があり、この池は村の所有で「大池」と呼んでいます。これは田圃に水を供給する溜め池で鬱蒼(うっそう)とした杉林に囲まれていました。

大水谷戸から西へ行くと大橋道があります。その右側に小さな橋があり、この橋をドンド橋と呼んでいました。その横の三角地がお正月の門松飾りなどを燃やすドンド焼きをする場所です。左側は1メートル程高く田圃が続いています。ここが地蔵の前と呼ばれている場所です。右の山の崖に鼻欠地蔵が掘ってあって、ここが峠村(朝比奈)と大道村との境です。

左側を川に沿って行き橋を渡ったところが杉の崎です。この奥が大鳥居の谷戸で、しばらく田圃の中を奥深く行き、突き当たり左側の山に登ると「茅場」で、毎年1月中旬に村人総出で茅刈りを行います。更に奥へ行くと道が川に入り込んでいます。この辺りが「滝の沢」という場所です。この奥右上が朝比奈の熊野神社方面で、左上が池子方面です。大鳥居を出て鼻欠地蔵の右側の細い道を登ると「小がくら」で右の奥の谷戸が「かくらの谷戸」です。現在の大道中学辺りです。この谷戸は水が少ないので雨を待って仕事をする場所で天水場と呼ばれています。左の山裾を行くと「いが山」です。田のあぜ道を行くと川間に出ます。ここを左に入ると山王様の鳥居の前です。この辺りはカナクソと呼ばれており、カナクソとは、刀を鍛錬したあとの鉄くずのことです。

毎年10月1日は山王様のお祭りです。当日はのぼり旗を立て、参道には灯篭を並べ鳥居の前には寿司屋(牛寿司)が出て参拝人をもてなしました。境内では豆の木を燃やして湯を沸かして無病息災を祈願したそうです。山王様の奥が高宗の谷戸です。その昔、高宗という刀鍛冶が住み、侍従川の砂鉄で玉鋼で刀を打ったという言い伝えから、ここを「高宗の谷戸」と呼んだそうです。奥右側が「夕日当り」です。杉、松の林に囲まれてエビネなどの草花が沢山ありました。左側のくぼ地が「隠れ里」です。

高宗の谷戸を出た左側に「お庚申様」があります。苔むした石塔に1795(寛政7)年4月8日建立と刻まれ、三猿(見猿、聞か猿、言わ猿)が彫ってあります。この辺りが「すもう免」と呼ばれています。その先の左に「わきの谷戸」「大谷戸」「おもて」などを屋号とする五軒集落があります。左側の大谷戸の山には稲荷様が祀ってあります。木製の山王橋を渡って、侍従川に沿って左に行くと二軒の民家が並んでいる。この前の辺りが並木と呼ばれている所です。山裾を侍従川に沿って行くと光伝寺(裏山が光伝寺山)の境内に至り参道を右に行くと諏訪の橋があります。これを渡り右に行った所が出発点で、ここで大道巡り歩きは終わります。

■ 大道の生活
大道の戸数は32戸で、その殆どが茅葺屋根の家でした。そのため、村では茅場を所有し各戸の屋根葺替えは大体30年に一度の割合で行われていました。毎年、1戸ずつ屋根替えを行うと32年目で順番が回ってくるという計算になります。

お正月の行事が終わると1月7日くらいから茅刈りが行われます。この行事は村人が総出で行う作業で一人ひとりがナタ鎌で刈り取ります。各自弁当持参で大鳥居から茅場へ行く人、堂山の尾根伝いに行く人などがあり、山は大変賑やかでした。夕方になると各自が刈り取った茅の束5~6束を背負い、屋根替えの家近くの田圃端に積んで置き、2月~3月の屋根替えを待ちます。屋根替えの当日になると、各人は金銭の代わりに編んだ縄を持って手伝いに行き、朝方は互いに顔が分かりますが昼頃になるとススで顔が真っ黒になり、人別が分からなくなります。屋根屋さんは釜利谷の職人さんに依頼し、古い茅をはぎ取る作業、新しい茅を乗せて青竹(ほこ竹)で茅を押さえる作業が始まります。手伝いの人が屋根裏に入って外側から屋根屋さんが竹針のように縄を突き刺し、屋根裏の人が縄を付け替え、丁度糸で縫い合わせるようにして茅を固定します。午後3時頃から屋根の刈り込みが行われ、屋根屋さんが屋根左右から大鋏で刈り込みます。この刈り込みが終わると屋根の形がきれいになり、丁度女性が髪結いに行って来たように綺麗に仕上がり完成です。この光景を周辺から見守って見物する人々が誉めたたえます。

この行事(事業)を長く存続するため、「屋根無尽」が行われていました。一定の掛金を拠出し、屋根替えの費用に充てる仕組みでした。茅葺屋根は、燃え易い茅材を使用することから、火災発生の要因となるという事由で立替えられ、現在は、大道には一軒も残って居ません。この屋根無尽は、村人の親睦目的でその後も続いていましたが、自治会の旅行会などに変化し、屋根無尽は自然消滅しました。月に一回集まっての屋根無尽での四方山話は楽しいものでした。

■ 大道の青年会
大道の青年会は大道に住む32戸の長男は、必ず入会することに決まっており、尋常高等小学校を卒業すると直ちに入会したものです。年齢は16歳以上、入会するときは月に一度行われる常集会で全員に紹介され、その集会では必ず会食がありました。私が入会したのは1937(昭和12)年5月でしたが、その時の会長さんが天丼好きな人で、わざわざ横須賀の桜屋の天丼をご馳走してくれたことを思い出します。青年会は消防団とともに村の行事には必ず参加し、村の原動力になっていました。毎月、日曜日の夜7時から常集会が行われて、その月にあった出来事を発表する会でした。

その会では教養の向上を図ることも行っていましたが、それぞれ自由なテーマで意見を発表します。大道には教育熱心な方がいられ、その発表内容について様々な評価を加えてくれました。また、青年会の中堅以上の方を対象として自強会という会がありました。目的は、「自分から努め励むこと」を目標にした会でした。意見の発表にも自然と熱が入り、自分の体験と経験が発表されます。戦争中は、日本国民皆兵といって、満20才になる男性は兵役に行くことが義務づけられていました。そこで兵隊に行った時の経験や失敗談などを話して、これから兵隊に行く方が、参考にしたものです。また、青年会は教養だけでなく、青年会主催の家族慰安会も年一回行われました。内容は落語・講談あるいはハーモニカなどによる演芸が行われ、家族が一夜を楽しんだものでした。

7月14日の天王祭は、早朝から各家で採れた野菜などを持ち寄り、キュウリ揉みなどの料理を作り祭りのご馳走にしました。このような青年会の活動により、大道から努力して立身出世された多くの方々が居られました。小泉又次郎さんもその1人です。大道青年会を振り返ってみると、内容のある明日に向った行動規範が示され、諸先輩の方からの温かいご指導で、本当に良い人生経験の場であったことが思い起こされます。

現在も、この様な組織や教育の場があれば、青年の非行や乱れがなくなるように感じられ、世の中にもう一度「昔の青年会」のようなムードが漂う場が欲しいものだと思っています。

■ 大道の四季
大道は、山と田んぼ、侍従川というすばらしい自然環境に恵まれていました。大道の四季を綴ってみたいと思います。

(春)雪が溶けて最初に蕗(ふき)のとうが顔を出す、蝋梅(ろうばい)の黄花が輝くころ、長かった冬に別れを告げる。田面に張った氷も消えて、田圃に水たまりが出来るころになるとお玉杓子が泳ぎ始める。明堂(侍従川沿の民家)の吉野桜が満開になって、辺り一面花吹雪になり、竹藪では鶯が鳴き田圃の土手には土筆が顔を出し蒲公英の花で埋まる。春日面の猫柳も白金色の芽を吹きはじめる。

(夏)五月になると水も温くなり農作業が始まる。稲苗も大きく育って子供たちは苗間に入りズイ虫(害虫)を取る。六月中旬夜間には夏祭りの太鼓の練習が行われ、威勢の良い太鼓の音が聞こえてくる。この頃からそろそろ田植えが始まる。 
七月十四日は瀬戸神社の夏祭りで、瀬戸、六浦、川、三艘の順に屋台が並び、各村中に屋台を繰り出し、大道へは丁度昼頃に到着する。夜間になると小川や田圃の畦道で蛍が飛び交い、蛍を呼ぶ子供の声が聞こえてくる。
「ホ−ホ−蛍来い。あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ、ホ−ホ−蛍来い。」 

八月の暑い昼下がり大池の栓が抜かれる。池には鯉、鮒、泥鰌、川海老などが沢山いて子供たちも大人も夢中で魚取りに興じる。帰り道大堰で泳ぎ、夕方から鼻欠地蔵前の広場に集まり田圃に水引をする。かくらの谷戸の蓮田では子供達が蓮の実取りに夢中になる。八月十五日はお盆の中日で、夕方から松明に火を点けて「虫送りの行事」が行われる。

(秋)田圃一面が黄金色に染まると、そろそろ稲刈りが始まる。伊賀山の周辺の土手では彼岸花が満開となって丁度、赤の絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたようになる。里山では百舌(もず)が鳴き、この頃になると山栗(小粒だが甘く味がよい)拾いが始まる。堂山から登って「お富士山」を廻り、茅場あたりまで出掛けると、子どもが遊びながらでも袋いっぱい位とれる。十月一日は山王様の祭りである。幟を立てて参道には灯篭をぶら下げる。鳥居の前に寿司屋が出て参拝する人を持て成したと村の長老から伺った。十一月二十三日は収穫祭で、大道の田圃でとれた米は大変良質で、いつも一等米の評価であったと聞いている。

(冬)雪は毎年2~3回降り、三十センチ位積もる。雪が降るとパッチンを作ってホオジロ、アオジなどを捕って遊ぶ。お正月には新しい服や靴を買ってもらい凧上げ・羽根つき・双六等に興じる。 一月十四日の早朝はドンド焼きの日で、前日に集めた門松や書初めを積み上げ焼き上げる。この火で餅を焼きこれを食べて無病息災を祈った。一月十五日頃になると茅刈りが始まる。村人が一つになり、協力して行う村総出の事業である、この行事が終わる頃には、里山の木々の芽もふくらみ四季は一巡する。

■ 侍従川の思い出
侍従川は、大道の人たちを支える川であったと同時に、四季折々の変化ある自然が大道に住む人たちの目を楽しませてくれていました。最後に、侍従川の思い出を綴りたいと思います。

侍従川は、朝比奈峠を水源とし大道を縦断し、川、三艘を通り抜け平潟湾に注ぐ清流である。川の名前は中世から伝わる照手姫伝説に登場する乳母の「侍従」に由来する。

侍従川の水は清く絶えたことがなく、お陰で大道は大変豊かな村であった。現在、大道中学校のバス停の近くの岩に彫られた風化したお地蔵さんは鼻欠地蔵と言い、相州(鎌倉)と武州(金沢)の境に肥えた土地争いの仲裁役として建立されたが、争いがなかなか絶えないのでお地蔵さんが見せしめに、自ら立派な鼻を欠いてしまったと言い伝えられている。

この川はうねうねと曲がりくねり、自然の川そのままの姿をしており、両側は大名竹が生い茂り、遠くからでもひと目で川であることがわかる。川間のネコ柳が白銀色の芽を吹く頃になると侍従川にも春がくる。川の土手には土筆(つくし)・蒲公英(たんぽぽ)・菫(すみれ)、蓮華(れんげ)・薺(なずな)などの野草で覆われ、川岸の竹薮では鶯が鳴き、鶺鴒(せきれい)・翡翠(かわせみ)・アオジが飛び交い、麦畑では雲雀がさえずる。六月になると田圃に水を入れる大堰が作られる。この頃から川の流量が減って子供達の川遊びの時期になる。大堰下の水溜まりには川海老、鮒、ハヤが棲んでいて、子供たちは我先に網でとる。川の下流ではかい堀りが始まる。これは水をせき止めて中の水をかい出して魚を捕る方法で鰻、泥鰌(どじょう)がよくとれる。

七夕が過ぎ、夏祭りが近づく夜、川岸で蛍追いが始まる。夜露で衣服がびっしょりになるまで戯れる。八月末頃、大池の水が抜かれ、池の鯉・鰻が沢山いて大人も子どもも夢中になって捕る。これは年一度の楽しみな行事である。秋になって水が不要になると大堰が開けられ放水する。水の少なくなった川では鰻釣りが行われる。

十月頃、大潮になると諏訪の橋でハゼ釣りが行われる。十センチ位のハゼがよく釣れ、この魚は竹串に刺して焼き、お正月の昆布巻用として保存する。チンチンカエズ(黒鯛の子)や白魚も海から上がってくる。

秋も深まり稲刈りも終わり、雑木林に北風が吹き抜け、里山がすっかり冬支度を整えた頃、川岸には霜柱が立ち始め、川面は薄氷に覆われて侍従川も冬支度に入る。

▶大道の歴史と昔の生活” に対して1件のコメントがあります。

  1. はじめまして!
    横浜市金沢区のご当地かるた『カナかる』制作チームでイラスト担当のツンです!

    1枚目のイラストがとても分かりやすいので、参考にさせて頂きます(^-^)

    あっ!
    ネタバレしちゃいましたね汗
    2023年の春頃にリリースしますので、お楽しみにー♪

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