▶子どもの頃の忘れ難い思い出

65年前の忘れ難い思い出(大道町内会 鈴木 巽)

私の子どもの頃の忘れ難い思い出として、昭和10年代のことがあります。昭和12年に中国と日中戦争が始まり、それが拡大して16年には太平洋戦争に突入しました。その間、近所の大人が兵隊として、次々に出征して行きました。町内の子どもたちも、朝早く、日の丸の小旗を振りながら金沢八景駅まで送って行きました。出征する人は電車の最後尾の窓を開けて、見送ってくれた人たちに必死に両手を振って出発して行きました。私の兄3人も次々に出征しました。太平洋戦争も敗色の濃くなった昭和20年7月、三男の兄がフィリピンのルソン島で戦死したとの公報が届きました。兄の遺留品は何一つ戻ってきませんでした。23歳という若さでした。

米軍の反転攻勢で遂に日本国内への空爆が始まりました。艦載機による機銃掃射、サイパン島を発進した米軍のB29重爆撃機の爆弾や焼夷弾攻撃による攻撃です。昭和20年3月10日には東京大空襲、6月29日の横浜大空襲、そして6月10日には、この金沢区富岡地区周辺がB29による空襲を受けました。当時富岡周辺には横浜海軍航空隊や、日本飛行機、石川島航空工業、大日本兵器などの民間の軍需工場が取り囲む様にありました。横浜海軍航空隊には水上艇が配備され、日本飛行機では練習機を、石川島航空工業では零戦のエンジンを作っていました。私は石川島航空工業で働いていました。

その日は、9時前後だったでしょうか、空襲警報がなり、大多数の従業員は会社の前の山にある大きな防空壕に入りましたが、私は防火隊のメンバーだったので工場内にいました。B29の編隊が見えたと思ったら、いきなりヒューンという音がしましたので、目の前の防火用水のコンクリートの陰に倒れ込みました。大きな爆発音の後、静まるのを待って、様子をうかがうと、隣の日本飛行機、横浜海軍航空隊の方で、黒煙が上がっておりました。その日の夕方、毎日利用していた杉田の駅まで行くと、電車は不通になっていましたので、仕方なく線路の上を金沢ハ景に向けて歩きました。

富岡駅のすぐ手前の短いトンネルに近づき、トンネルの中に止まっている2輛連結の電車を見ますと、窓ガラスが1枚もありませんでした。この日の空襲警報で、この電車は乗客を乗せたまま、このトンネル内に避難していました。そのトンネルの両方の入口に爆弾が落ちて、その爆風で被害にあったのでした。トンネルの中にいた60名の乗客の中の40名くらいの人が即死してしまったそうです。

富岡地区では、この爆弾による空襲で59戸の家屋が全壊して、全焼した家屋は12戸もありました。また、その時の直撃弾でも多くの死傷者が出ました。トンネル内で被害にあった人も含めて、この空襲で亡くなった、たくさんの人々は富岡の慶珊寺(けいさんじ)の広い境内一面に並べられたそうです。

宝樹院の境内にも、太平洋戦争で戦死した大道の人たちを弔った立派な慰霊の碑があります。墓誌には24名の戒名が刻まれています。亡くなった年齢を見ますと多くの人が20歳代の若い人たちです。早いもので戦争が終わってから、65年という歳月が経ち、平和な世の中になりました。しかし、この平和は、この戦争で亡くなった人たちの貴重な犠牲の上で成り立っていると言うことを忘れてはいけません。これから、どんなことがあっても、この悲惨な戦争だけは、絶対に避けなければならないと強く思っています。

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