▶ふるさと大道の偉人
ここでは、大道で生まれてご活躍された人たちをご紹介します。
■ 小泉 又次郎さん(1865年6月10日〈慶応元年5月17日〉〜 1951年〈昭和26年〉9月24日)
1865(慶応元)年、武蔵国久良岐郡六浦荘寺分村大道(現在の大道2丁目)に生まれました。屋号は”よしべえさん”。父の小泉由兵衛に由来しています。由兵衛は横須賀に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の請負師でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/小泉由兵衛
又次郎は家業を継ぐように言われていましたが、国を守るための海軍士官に憧れ、無断で海軍士官学校予備校に入学しました。しかし、父の強硬な反対に遭い、その夢は叶いませんでした。その時、軍人になることをあきらめるために全身に「昇り龍」の入れ墨を彫ったと言われています。政治家になってからは、「いれずみ大臣」「いれずみの又さん」と呼ばれていました。
14歳で横須賀学校(横須賀小学校の前身)を卒業後に、小学校教員、新聞記者を経て、1907(明治40)年横須賀市会議員に当選。後に議長をつとめました。 神奈川県下4番目の県立中学である神奈川県立第四中学校(現在の横須賀高校)の設立に尽力されました。1908(明治41)年に衆議院議員に当選しました。
その後、立憲同志会を経て、憲政会に所属し、1921(大正10)年に幹事長。普選運動、第二次護憲運動で活躍しました。1924(大正13)年の衆議院副議長、1928(昭和3)年に立憲民政党幹事長に就任。1929(昭和4)年に浜口内閣で逓信大臣、1934(昭和9)年から横須賀市長を務めました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/小泉又次郎
菩提寺の宝樹院には、小泉家代々の墓地があります。故郷である大道の青年会の講師をするなど、地元の発展にも貢献しました。又次郎(逓信大臣)、純也(防衛庁長官)、純一郎(総理大臣)、新次郎(農林水産大臣)と四代続いて大臣、総理大臣を輩出した政治一家です。ご存じの通り、小泉新次郎氏は、コメ不足問題解決に奮闘中です。又次郎が生まれた大道2丁目の場所には、息子の純也が建立した石碑が建っています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/小泉純也
https://ja.wikipedia.org/wiki/小泉純一郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/小泉進次郎
宝樹院には「耕道樹徳(こうどうじゅとく)」の書が残されています。「耕道」は、学問や仕事を通じて、より良い自分になるために努力すること。「樹徳」は、徳をもって誠実に物事を考え、責任感を持って行動すること。生涯を通して信念を貫き通した小泉又次郎のお人柄が偲ばれます。






■ 長島重三郎さん(1878(明治11)年〜1967(昭和42)年)
長島重三郎さんは、神奈川県久良岐郡三分村(現在の大道1丁目)に生まれ、1895(明治28)年に代用教員として六浦荘村三分小学校(現在の六浦小学校)に勤めるようになり、1931(昭和6)年まで長きにわたり教師としての職務にあたりました。
その傍、1922(大正11)年には神奈川県の地方改善常務委員に就任してご活躍されました。教員を退職されてからは、大道町内会会長など社会事業に携われ地域の発展のためにご尽力されました。被差別部落解放運動や女性解放運動などの数々の業績が評価され多くの表彰を受けられています。
掲載の毛筆の文章は、昭和二年十二月二十六日の夜に六浦荘村三分小学校の当直室で書いたものだそうです。偉人の伝記のような書物のまえがきだと思われます。長島重三郎さんのお人柄が偲ばれる筆跡だと思います。
● 長島重三郎さんの経歴
1878 (明治11) 年:久良岐郡三分村大道に生まれる
1885 (明治18) 年:三分小学校に入学
1893 (明治26)年:郵便局員勤務
1895 (明治28) 年:三分小学校の代用教員となる(17歳)
1898 (明治31)年:尋常科正教員試験合格
1909 (明治42)年:小学校本科正教員免許取得
1912 (明治45)年:大道青年会会長就任
1922(大正11) 年:地方改善常務委員就任(47歳)
1925 (大正14)年:青和会六浦荘支部長就任
1931 (昭和6) 年:教員退職。 大道区長就任(54歳)
1937 (昭和12) 年:方面委員就任
1938 (昭和13) 年:大道町内会長就任
1967 (昭和42) 年:死去(89歳)
● 参考
http://synthetic-anthropology.org/blog/wp-content/uploads/2019/06/OL13_11_manabe.pdf






