▶三艘の象ヶ谷

北条実時の時代(1260年頃)に、唐船三艘が六浦の津に着岸し、その唐船に一切経、青磁の花瓶や香炉、蜀光錦等が陸揚げされました。これらは称名寺の宝物として、現在も金沢文庫に収蔵されています。

この唐船で珍しい象が運ばれた時があり「唐船に積まれた象が三艘に着いた時には息絶えていた。その象を弔うために象塚を建てた」という話に纏わる地名が三艘の「象ヶ谷(ぞうがやと)」に残されています。

この象塚は、六浦の浅間神社の参道にありましたが、京急の逗子線が出来た時に移された、という話も言い伝えられています。(2月14日 廣瀬)

▶三艘の象ヶ谷” に対して9件のコメントがあります。

  1. 小泉雅洋 より:

    この谷戸そのものを
    「じゅーでんぼう」と呼んでいます。
    何故そう呼ぶのか、云われを知りませんので
    ご存じの方がおられれば良いのですが。。。
    急傾斜事業の折、鎌倉時代に掘られた
    (やぐら)が見つかっています。
    幅1メートル程の通路が3~4程まっすぐ奥へ向かい
    右側にオフセットして6畳程の正方形の空間がありました、埋葬等の目的とは違うもののようでした。
    資料は神奈川県の調査で広報にも掲載されているはずです。

    1. 廣瀬隆夫 より:

      「じゅーでんぼう」が何か分かると良いですね。近くには「一覧亭」「九覧亭」という見晴らし台があったことが知られています。「じゅーでん望」で景色を望む場所だったのかもしれませんね。
      https://daido-net.sakura.ne.jp/wp/2021/10/03/ichiran/

      やぐらがあったのですね。横浜歴史博物館で、中世の六浦の地形を見てきましたが、この辺りの地形は大幅に変わっていますね。
      https://daido-net.sakura.ne.jp/wp/2021/11/14/yonekura-2/

      近くに、自然の岩を屋根に使った少し変わった祠があるのですが、それが象塚と関係しているのではないかと考えています。
      https://daido-net.sakura.ne.jp/wp/wp-content/uploads/2020/05/kanesawa_20160207.pdf

      1. 小泉雅洋 より:

        「望」
        以前、地域の古老から
        「遺伝坊」ではないか?と聞いた事もあるのですが、
        時代背景が一致しないなぁ?等と思っていました。
        何しろ口伝でしか伝わっていないので、
        いつかパズルのピースがはまると良いのですがww

  2. hirose より:

    地名は、謎が多いですね。でも、きっと云われがあると思います。親父が残した地図に書いてあった地名を100年前の地図に書き込んだものです。すもう免やそこ免は、免税地ではないかと言われています。すもう免は、山王神社の奉納相撲をやった場所、そこ免は、大道にあった関所で捉えた罪人を置いていた場所ではないかと古老から聞いています。
    https://daido-net.sakura.ne.jp/wp/wp-content/uploads/2021/04/大道古地図20210425.pdf

    1. 小泉雅洋 より:

      大正10年の地図で、関東大震災前の地域の様子が
      うかがい知れるのは、貴重ですね。
      もう一つの絵地図にも記入されていましたが、
      地域の地名(字)が現在に反映されて解りやすく
      表現されているのは、とても重要で意義のある事だと
      思います。
      米倉家ー六浦藩の成立による、内川の埋め立てや開発。明治政府による国道の制定と整備。
      関東大震災による地盤の隆起と平潟湾の埋め立て。
      大戦での軍の収用や、戦後の混乱。
      地形に変化をもたらす事象が起きても、
      古い地名が残っていれば、地域の過去が
      うかがい知れる重要な要素だと思います。

      1. hirose より:

        そうですね。古い地図は貴重だと思います。昔の地名は、20年以上も前に亡くなった親父から聞いたものです。照手姫伝説に出てくる油堤(あぶらつづみ)と象塚の場所を特定したいのですが、昔の地形が分からないと調べようがありません。先日、横浜歴史博物館に行きましたら、中世の金沢のジオラマがありました。六浦駅や光傅寺の前が海岸線だったことが良く分かりました。このようなジオラマを金沢区役所に置いてもらいたい、と思いました。
        https://daido-net.sakura.ne.jp/wp/2021/11/14/yonekura-2/

        1. 小泉雅洋 より:

          象塚。 明治期に土地に地番が振られ、路、水路となっている所、地質的な岩盤。像が谷戸の屋敷と井戸。元禄に寺移転したと思われる墓所を除くと、場所としてはかなり限られると思いますが、いつ、なぜここに居を定めたのか?すら判りません。

          1. hirose より:

            象塚の由来については、「ぞうがやと」という屋号の家がありましたが、そこには何か残っていたかもしれませんね。象ヶ谷橋の近くに、このような祠がありますが、形から象塚に関係するものではないかと考えています。
            https://daido-net.sakura.ne.jp/wp/wp-content/uploads/2021/02/2.jpg

  3. 小泉雅洋 より:

    象が谷の屋敷を撤去した時には、
    県だと思うのですが、埋蔵文化センターの調査はしたと聞いています。

    写真の祠と同じ様な物は(中央部の四角い部分)、
    他にも在ったようです。
    じゅうでんぼうにあったものを、
    正雄さんが持って行ったと聞いています。

    写真の上部に乗っている石は謎ですが、
    平面で構成された部分は後の時代になって
    組み合わされたのではないでしょうか?

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