▶お茶を飲みながら六浦の歴史に親しむ ~六浦の地形の変化と歴史、三分小学校の成り立ち~
お茶を飲みながら六浦の歴史に親しむ ~六浦の地形の変化と歴史、三分小学校の成り立ち~
■講師:
・長島輝信さん(地元旧家のご出身、郷土史にお詳しい)
・飯塚玲子さん(郷土史研究家、飯塚茶店、お茶の淹れ方にもお詳しい)
■日時:2020年7月30日 13時~14時
■場所:六浦地域ケアプラザ(1階)
■参加:約20名
■主催:ささえ愛のつどい、共済:六浦地域ケアプラザ
■協力:柳町地域ケアプラザ、金沢区社会福祉協議会
■記録:廣瀬隆夫(大道町内会)
前半は、縄文時代から鎌倉、室町、江戸という歴史を経て六浦の地形がどのように変わったかというお話。後半は、2023年に150周年を迎える六浦小学校の前身の三分小学校のお話でした。コロナ禍を考慮して三密を避け、1時間という時間でしたが貴重なお話をお聞きすることができました。講師の皆さん、準備をされた皆さん、ありがとうございました。お聞きした内容の中で印象に残っている所をまとめました。
1)第1部 六浦の地形の変化と歴史(長島輝信さん)
縄文時代に、今より海面が5メートルも高かった時代があったことは驚きでした。金沢文庫や柳町、室の木、六浦など平地の大半は海の中だったとのこと。野島や夏島、猿島が海の中から頭を出すような地形ということでした。当時の金沢八景は、今の松島のような風景であったと思います。
その後、徐々に海岸線が後退し、干潟ができ、新たな海岸線が形成され金沢八景の原形となるような美しい地形になりました。野島は、孤立した島でしたが、寺前の方から砂州が伸びて陸続きになりました。素晴らしい金沢八景の広重の絵が紹介されました。
時代は飛び、鎌倉時代になりますと、六浦には良港があり、栄えていました。上行寺の南側にあったと思われる六浦の津や三艘の港があり、外海の影響を受けずに船を停泊できる場所で、房総や海外から物資を運ぶ拠点となりました。当時、三艘の港に中国の船が来ていたことは確かなようです。
また、鎌倉時代になると多くののお寺が建立され始めます。大道にあった常福寺が最も古いお寺と考えられ平安時代後期には建てられていたという記録があります。その後、源頼朝の建立とされる浄願寺と瀬戸神社ができ、上行寺、称名寺が建てられ、鎌倉幕府が滅亡して、足利氏の室町時代以降になると光伝寺、千光寺、長生寺、善照寺とたくさんのお寺が建立されました。常福寺、浄願寺、善照寺は、今はありません。
常福寺は宝樹院の下にありました。浄願寺は木原整形外科の階段を登ったあたり、善照寺は川町内会館の近くにありました。これだけ多くのお寺が出来たということは、六浦は当時から栄えていた証拠だと言われていました。
六浦の油堤(あぶらづつみ)のお話がありました。川町内会館の周辺に海水が入ってこないように、侍従川の岸に土を高く築き上げた堤があったものと考えられます。現在ではどんなものだったのか、どこにあったのか正確には分かっていません。今では油堤の名を知っている人は、ほとんど居りませんが、江戸時代の地誌などの文献には必ず登場しますので、当時としては有名な堤であったため地名が残ったのだと思います。この堤がなければ、千光寺、光伝寺などが建っている場所に海水が入ってしまい、寺そのものが存在できなかったと考えられ、川町内の発展に重要な役割を担っていた堤であると言われていました。
江戸時代になり、領主である大名の米倉丹後守(よねくらたんごのかみ)が、現在の金沢八景駅の西側に、城ではありませんが陣屋を構えました。陣屋は、殿様である米倉氏の屋敷で役所の機能も備えていたそうです。当時、外国船が東京湾に来航してきたため東京湾警備のために六浦に陣屋を構えたと言われる学者の方がおりますが、歴史があり風光明媚な金沢八景の地を領主が好んだのかもしれません。古いことで確かなことは分かっていません。
江戸時代なっても、六浦は以前の時代にも増して栄えていました。当時の六浦には、物資輸送の拠点と、観光ルート上の中心地としての2つの側面があったようです。六浦や周辺の山から伐採した薪や材木を大量に江戸へ出荷する商売が成立しており、商売に成功した家が侍従川沿いに何軒かできます。
観光ルートの1つとして、東海道の保土ヶ谷宿から、東海道をそれて枝道に入り、杉田の梅林を訪ね、さらに金沢八景の景色をながめ、六浦に立ち寄り、朝比奈峠を越えて、鎌倉・江の島を目指すという人気のコースがありました。六浦には、上行寺、千光寺、光伝寺という観光地もあり、まさに観光の拠点だったということでした。
明治の始めのほんの一瞬ですが、廃藩置県で領主の米倉氏の支配する六浦藩は六浦県になり、米倉氏の最後の殿様である米倉昌言が六浦県知事になりますが、直ぐに神奈川県となり、知事は新政府の人材が登用されました。
米倉氏は、新政府に早々に恭順の意を示しており、新しい世に対応すべく、藩校・明允館(めいいんかん)を設立させ、優秀な人材の発掘・教育に努めました。しかし、明治の時代が動き始めると直ぐに、新政府の登用する人材にとって変えられてしまいます。
藩校・明允館は、新政府の施策により設立された三分学舎(三分小学校)に姿を変えたということになりますが、地元の人々が教育が熱心で、三分小学校を支えていたというお話がありました。ここまでで前半が終わり、飯塚さんの三分小学校の詳しいお話に引き継がれました。
2)第2部 三分小学校の成り立ち(飯塚玲子さん)
六浦小学校は、2023(令和5)年に創立150周年を迎えます。後半は、飯塚さんに、その前身の三分小学校のお話をしていただきました。
この地域には、約170年も前の1852(嘉永5)年から1869(明治5)年まで、長生寺に春潮堂という寺子屋があったそうです。男30人、女20人という多くの子どもたちが通っていました。1866(明治2)年には、六浦藩の藩校、明允館(めいいんかん)が泥牛庵に開校しました。
明允館は、塾生が65人で、その中に寄宿生が10人いました。四書五経(論語、中庸、大学、孟子、易経、書経、詩経、礼記、春秋)の中国の古典など、漢学を中心に教えていたそうです。学校頭取は、佐藤忠蔵氏、助教は、六代目の相川文五郎氏でした。その後、藩校明允館の流れをくむ三分学舎が1870(明治6)年に光伝寺で始まりました。初代首席は、明允館の学校頭取だった佐藤忠蔵氏でした。学校頭取や首席は、今の校長先生のような役割の人だったようです。
三分学舎は、三分学校となり、人数の増加に伴い、1875(明治11)年に侍従川の高橋の近くに新築二階建ての校舎を作り移りました。その後、三分小学校に名前が変わります。学校の運営には、地域の有力者である相川家や長島家など地域の人たちの大きな助力があったそうです。
当時この地域は、三分村と呼ばれていました。三分村は、社家分、寺分、平分、の三つの村から成り立っていました。社家分は元は瀬戸神社の所領で、瀬戸から瀬ヶ崎にかけて、寺分は、大道山・常福寺の元所領だったことから大道の地域、平分は、その他の川・三艘から室の木までの場所を指し、六浦は三つの村がはいりこんでいたと言われています。実際には細かく三つの村が複雑に入り組んでいて、今となっては、正確な地域の区分はわからなくなっているようです。
三分小学校は、六浦藩の藩校の明允館の流れをくむだけあって、試験などの成績も他の学校に比べ優秀でした。幕末から明治の初めにかけて人材育成が急務となり、六浦藩も、これからの世の中ために次世代を担う人材を育てることが重要と考えられていたそうです。
三分小学校沿革誌には、明治12年のコレラ流行の話が載っています。今のスシローのところに田中医院という大きな病院がありました。その田中医師が生徒が下校する時に予防薬として石炭酸を寄付したという記述があります。
今も新型コロナウイルスで大変なことになっていますが、1876(明治12)年のコレラ禍では、全国の患者は16万2637人、死者10万5786人だったそうです。三分小学校では、1879(明治15)年7月23日から8月6日まで14日間、コレラ流行のために暑中休業になりました。これが、三分小学校で初めての夏休みとなりました。
【参考 明治のコレラ禍】
http://www.bosaijoho.jp/reading/item_6691.html
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00854/
その三分小学校は、1923(大正12)年の関東大震災で大きな被害を受けました。平屋木造の校舎は倒壊してしまったようです。幸運にも、生徒は下校しており、先生のいた職員室はつぶれませんでした。そのため、生徒や先生はほとんどが無事でした。
関東大震災後、一村一校という方針に従って、壊れた三分小学校と釜利谷小学校を合併して新しい小学校を新築しようとしましたが、大変な事件が勃発したそうです。釜利谷小学が吸収合併されて、学校がなくなってしまうことに対して釜利谷の住民が大反発を起こしました。釜利谷出身の村会議員は全員辞職、釜利谷の子どもたちは新しい学校に通わせない、私立の学校を釜利谷に作るなどの抵抗を行いました。当時、新聞に大きく取り上げられ、ラジオにも流れ大騒動になりました。
結局、相川文五郎氏の調停で、相川氏が一万円を釜利谷側に払い、三分と釜利谷の真ん中に新しい小学校を作ることになり和解し、六浦荘村立六浦荘尋常高等小学校が出来ました。これが、今の六浦小学校です。当時は、行政だけに頼るだけでなく、資金面やその他、自分たちの力で学校を作ってきたので、地域の人たちの学校に対する思いが強かったことが分かると思います。
最後に、横浜市立六浦小初代校長の平田恒吉さんの著者「金沢と六浦荘時代」などを紹介していただきいました。内容の濃いたいへん、有意義な講演会でした。長島さん、飯塚さん、ありがとうございました。
それにしても、今の六浦駅の周辺が港だったとは信じがたいですね。三艘の地名のことは前から知っていましたが、その昔ばなしが実話だったことが良く分かりました。
六浦の油堤(あぶらづつみ)のお話は、興味深かったです。照手姫の物語でも、この油堤に姫が投げ込まれたというシーンがあります。当時はたいへん有名な堤だったのでしょうね。
https://daido-net.sakura.ne.jp/wp/2020/05/25/terutehime/
南アルプスには、信玄堤(しんげんづつみ)という場所が残っているようです。
http://shingentravel.com/yukari/tutumi/tutumi1/tutumi1.html