▶中世の六浦や金沢の地形

金沢区にお住まいの高校の先輩が中世の金沢の地図をFacebookに公開されていましたので、了解をいただいて転載いたしました。横浜市立歴史博物館のジオラマ画像に加筆されたそうです。この地図の解説をしたいと思います。(廣瀬)

この地図を見ますと、神社仏閣が道に沿って建っていたことが分かります。上行寺の前には船着き場がありました。日蓮上人との船中問答の末に日蓮宗に改宗したという逸話が残っています。日蓮上人が千葉から鎌倉に行く途中の船ではなかったかと推測できます。ここから鎌倉までは、朝夷奈切通を通ればすぐです。船着き場にあった松の木の子孫が残っています。侍従川の河口は広くて対岸までかなりの距離があったようです。千光寺の前あたりに照手姫が投げ込まれたという伝説に出てくる油堤という堤防があったと思われます。

三艘の前は深い入り江になっていて、鎌倉時代にから3艘の船が着いたという伝説の裏付けになります。宋の船で運ばれた宝物は、白山道を通って金沢文庫に運ばれたと思われます。瀬戸橋が出来る前は、文庫に行くにはこの道しかありませんでした。六浦には象ヶ谷(ぞうがやと)という地名も残っており、海外から象が運ばれてきた場所という伝承が残っています。千光寺には、宋船にネズミよけに乗せられていた猫を弔う猫塚が残っています。

浅間神社や白山神社は、海を見渡せる半島の高台にあったことが分かります。船の運行の安全祈願や津波の避難場所にも使われていたのではないかと思います。白山神社の樹齢三百年とも言われている御神木のケヤキは、数回の雷で幹が空洞化してしまい倒木の危険があるので2023年3月に切り倒されました。

最も昔の景色が想像できないのが釜利谷の手子神社です。目の前が、内川入江とも瀬戸の内海とも言われている海でした。綱吉の生類憐れみの令の頃に、この瀬戸の内海が一種の水族館の様になっていて魚を大事に育てていたという話を聞いたことがあります。谷津の能見堂や金龍院から見た金沢八景の景色は広重などの浮世絵に残っていますが、素晴らしい景色だったと思います。金沢八景には、ここで獲れた鯛やヒラメを食べさせる東屋や千代本という料亭がありました。

野島は、砂州で陸続きになっていて、今の江ノ島のようになっていました。野島には、家が百軒あって長い間件数が保たれていたようです。ちなみに、大道は三十二軒でした。善應寺は、染王寺に名前が変わっています。室の木の大寧寺は、太平洋戦争で軍の基地が出来るということで、片吹に移っています。大寧寺があった場所は、現在は関東学院大学の敷地になっていて石碑が建っています。

大道の宝樹院は、三艘の谷戸にありましたが、その寺が炎上したため、1650(慶安3)年現在地に移りました。この場所には、足利持氏(あしかがもちうじ)の祈願所とされた常福寺が建っていました。常福寺の阿弥陀堂が残っており、阿弥陀三尊像が祀られています。

江戸時代には、埋め立てが進み、泥亀新田、平潟新田、小泉新田、赤井新田などの多くの新田が作られました。新田は、田ばかりではなく畑や屋敷地もありました。新田開発は年貢の取り立てを免じたり軽くするという優遇処置が与えられていました。海を埋め立てた新田の土地は塩分を含んでいて良い作物が取れませんでした。その結果、金沢文庫の近くには蓮田がたくさん作られました。

鎌倉時代の六浦、金沢八景の地形

江戸時代の金沢八景

▶中世の六浦や金沢の地形” に対して3件のコメントがあります。

  1. 小泉雅洋 より:

    図表中の内川入江について
    現在、国道16号線の内川橋近辺と
    時代に依り、名称の行き来があった様です。

    大川と云う、現在信号機に残る地名についてや、
    白山道の白山社から、現在の白山神社との関係。
    三双の浅間神社の縁起(古くは秋葉社であったと思われる為)

    地震による隆起で地形が変化したり、新田開発の結果であったり。
    千葉氏、和田氏から北条氏への為政者の変遷であったり。
    国道の開通や電鉄の敷設。
    地形も地名も時代背景で変化する様は
    地域の歴史に於いて、
    興味の尽きない面白さがありますね。

    1. hirose より:

      大道の旧家に、江戸時代、村の代表が浜松の秋葉神社にお参りに行っていたという資料が残っているようです。白山道の白山社と高谷の白山神社も関係があるのでしょうかね。侍従川は関東大震災で80センチくらい隆起したようです。それまでは、川の近くの家には小さな船着き場があったようです。富岡から舟で嫁入りしたという記録も残っています。瀬戸の内海は、浅瀬で埋め立てはそんなに大変ではなかったようです。三艘のあたりは、中国の大型船も入港していましたのでかなり深かったと思います。照手姫に出てくる油堤(あぶらつづみ)は今の侍従橋のあたりでだいぶ深かったようです。照手姫の話は、念仏で救われるという浄土宗と関係があるのでしょうね。千光寺も光傅寺も浄土宗です。浄土系のお寺は浄土真宗の長生寺だけです。このあたりは面白い場所だと思います。

  2. 小泉雅洋 より:

    三双の浅間社は江戸期の富士信仰や宝永噴火によって
    名称の追加と社の造営、境内の整備が行われたのではないかと推測しています。
    宝永噴火では、火山灰が10CMあまり堆積したようなので、
    田畑の回復には相当な苦労があったと思われますし、漁獲にも影響はあった筈です。
    この時期に於いても埋め立てが進み、新田開発や新河岸への進出に関係しているのでは?
    (昭和の初め頃まで浅間神社の裏手に秋葉社の石の祠があった為、
     信仰は並行して行われていたのです。
     御祭神の木花作也姫も秋葉信仰も、同じ様な山や火の信仰であるのに
     何故なのか?
     また、地域的には大山信仰や大神信仰とのかかわりもあった筈なので
     そういったかかわりも記録が出てくると面白いのに)
    長生寺は現在浄土真宗なのですが、
    釜利谷の真言宗無了院から移転、改宗しています。

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