▶三艘の浅間神社
この神社は、横浜市金沢区六浦南1丁目付近にあります。京急線六浦駅から、金沢八景方向に線路沿いを5分ほど歩いた右側にあります。祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)、本殿は間口一間三尺(2.7m)、奥行一間一尺(2.1m)。1893(明治26)年の神社の明細帳では氏子の戸数は、34戸だったそうです。大道は32戸でした。京急の逗子線が出来る前は、参道が侍従川方面にのびていました。この参道に象塚があったと言い伝えられています。(2021年2月11日)
浅間神社は富士山に対する富士信仰の神社で近くには金沢文庫、谷津の浅間神社があります。富士信仰は、富士山そのものを神と見立てるなど、何らかの形で富士山を信仰や崇拝の対象とするものです。私も、雪冠をかぶった富士山を見ると、思わず手を合わせたくなります。
石段の下に、六地蔵があります。六地蔵とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つを表し、人間の死後、この六道を輪廻転生(りんねてんしょう)するといわれ、自身と死後の世界の幸せを願って祀られたものと浅間神社の案内板に書いてありました。季節に合わせてカラフルな服に衣替えします。今でも、信仰が生きていますね。
大道のHPから三双の歴史にたどり着きました。
近年、六浦の中世から明治初期にかけて
新たな研究も進みつつあり、
非常に興味の湧くところです。
大道町内会の今後の活動に期待いたします。
コメント、ありがとうございます。三双も大道と同じくらいの歴史がある場所です。このHPには、川、三双、大道辺りの歴史を載せていこうと考えています。象ヶ谷の話もおもしろいです。
https://daido-net.sakura.ne.jp/wp/2021/02/14/zouduka/
六浦の中世から明治初期にかけてのご研究は興味深いですね。
今後とも、ご支援、よろしくお願いいたします。
現在の参道の石段は、
昭和5年の湘南の開通により整備されたものです。
元の参道は、境内の大きな岩と社の間あたりから北側に
線路の向かい側から登ってきていたそうです。
江戸期の富士信仰で浅間神社となったと思われます。
裏手の岩のくぼみに「秋葉社」をお祀りしていました、
六浦藩の成立以前には、違った信仰の形があったのかも知れません。
現在の脇の小道あたりから、
山へ登った一帯が、村の茅場でした。
そのまま高取山方面へ続く道が
神武寺を経て逗子に続く道だったのかも??
また、個人的な見解なのですが、
お地蔵様は、6体が揃った作成ではなさそう
(お体の形が、違うものだったと記憶しています)
であり、一体(一対?)の造営でないとしたら、
所謂、六地蔵ではないのかも?。。。
庚申塚も含めて、移設以前の配置がわかりませんので、
何とも言い難いところなのですが。。。
「秋葉社」をお祭りしていたのですね。大道に、村の火災消除を祈願して、代表者が静岡の秋葉神社に参拝していたという江戸時代の記録が残っています。ここに関係しているのかもしれませんね。
https://www.akihasanhongu.jp/
お地蔵様もかなり古いものですね。今度、良く見てみます。