▶三分学校と大道の思い出
私の家は、宝樹院という真言宗のお寺の石段を降りたところにあります。そんな関係で「てらのした(寺の下)」という屋号で呼ばれています。大道では昔から、「わきのやと(脇の谷戸)」とか、「みょうど(明堂)」などの屋号で呼び合っていました。昔は、近所付き合いも今より盛んでしたし、同じ姓が多かったので、このように、あだ名のようなもので呼びあっていたのでしょう。(大道町内会 長島太郎)
私は、大正5年に、大道に生まれました。これから、私が子どもだった頃の様子をお話したいと思います。今は、大道小学校や六浦小学校、高舟小学校などのたくさんの小学校がありますが、私が小さい頃は、この辺には、六浦小学校の前身の三分学校という学校しかありませんでした。三分学校は六浦の交番の近くの北辰神社の横の道をまっすぐ行って、侍従川を渡った右側にありました。私が小学1年に入学した年の9月に関東大震災という大きな地震がありまして、学校は、跡形もなく壊れてしまいました。三分学校に通っていた子どもたちは、宝樹院、上行寺、泥牛庵などのお寺に分かれて勉強を続けました。校舎が新しく建て替えられて、学校に通えるようになるまでに3年もかかりました。
そのころの金沢の地形は、今とはまるで違っていて、六浦から室の木にかけての場所や柳町のあたりは全て海で広い湾になっていました。その三分学校から東側の地域は、広い砂浜になっていまして、海の水が、ひたひたと押し寄せるような場所でした。上行寺の前の道路を渡ったところのコンビニの近くには、今では家がたくさん建っていますが、このあたりは、昔は砂浜で、塩を作る場所でした。今では、塩場住宅という地名になっています。今の国道16号のあたりは松林になっていて、そのあたりからずっと砂浜が続いていました。松林には鈴虫がたくさんいて、良く捕まえに行きました。この砂浜で、くみ上げた海水を舟に乗せて侍従川の上流に運び、それぞれの家の軒先で大きなナベで煮詰めて塩を作っていました。
侍従川は、葦や竹が生えた自然のままの川で、地面からすぐの所に水があり、今よりもだいぶ水量がありました。満潮の時には、山王橋のあたりまで、潮が上がってきました。かなり深くて、子どもたちが川に飛び込んで水遊びをすることも出来ました。侍従川は、田んぼに水を引いたり、生活用水に使われていただけでなく、いろいろな生活物資を運ぶ交通手段にも使われていました。私が最も印象に残っているのは、肥やし舟です。昔のトイレは、今のように水洗ではなく、便器の下に穴を掘って糞尿を溜めて、いっぱいになると、それをくみ上げるというような原始的なものでした。その糞尿を肥やしと言っていました。肥やし舟は、くみ上げた糞尿を川や三艘から上流の大道に運んでいました。大道には、広い耕地に畑や田んぼがありましたので、その肥料に使っていました。
今の大道郵便局のあたりに、大堰(おおぜき)と呼ばれる大きな堰がありました。侍従川の渇水期に田んぼに水を入れるために板で川を、せき止めて堰を作ってありました。広さは5〜6メートル四方もあり、深さが2メートルもありました。そこで泳ぎの練習をやりました。大堰には、フナやどじょう、ウナギがたくさんいました。ウナギとりには、長い棒の先に餌の付いた糸をつないだ特別な道具を使いました。ウナギの棲んでいる穴のなかに餌と針を入れると、おもしろいように大きなウナギが釣れました。釣ったウナギは、家で料理してもらって食べました。また、侍従川にはホタルがたくさんいて、蚊帳の中にホタルを放して遊んだものです。
私の家の近くの堂山(どうやま)と呼ばれる山に洞窟が掘ってあり、その先に大きな縦穴がありました。最近は行っていませんが今でもあると思います。暗い洞窟を歩いていくとハシゴを使わなければ下りれないほど深い穴があり、底は6畳くらいの広さがありました。何のために掘られた穴なのかは分かりませんが、当時は、何にも使われていなくて子どもたちの遊び場になっていました。子どもたちは、この場所をそこめんと呼んでいました。当時、そこめんのあった堂山のまわりは、荒れ放題で、廃寺になった常福寺の墓石などが倒れて散乱していました。堂山の近所で、あまりに病人が続けて出るので、宝樹院の住職に頼んで供養してもらいました。墓石もきれいに直して、毎日、掃除をしました。それからは、病人が出ることもなくなりました。
宝樹院の階段を降りて車道に出る所に関所の跡がありました。今では、車庫になっていますが、私が小さな頃は、四角い窪地になっていて、関所の立て札が立っていました。昔は金沢から鎌倉に行く人たちからお金をとって、お寺の修繕などに使っていたと言われています。
若かった頃の話ですが、私は戦時中、技術者として横須賀海軍工廠(かいぐんこうしょう)という軍事工場に勤めていました。戦争が終わって階級社会から開放されたとき、初めて人間というものが見えました。戦争中は威張っていた人たちも戦争が終わると、みんな普通の人に戻って、それぞれの生活を始めたのです。人は本来誰でも平等で、それぞれが何かしらの得意分野を持っていると悟りました。その得意分野を伸ばすために努力をし、前向きな気持ちで社会のために活かしていくことが大切だと思っています。
大道は豊かな自然環境が今でもたくさん残っています。それが、この土地の人の特徴である穏やかな人格を作っているのだと思います。また、大道には、関所跡があり、歴史もあり、近くには金沢八景や金沢文庫の称名寺など多くの史跡があります。横浜というと元町など都会的で賑やかなイメージがありますが、こういう静かな場所も横浜の中に残しておきたいと思います。
この記事は、2011年2月19日にインタビューさせていただき文字起こしをしたものです。(廣瀬)
▶「かながわ検定・横浜ライセンス」最高齢で悲願達成、さらなるチャレンジも
最高齢で合格した長島太郎さんへのインタビューは、金沢区の自宅で実施した。インタビューを意識してきっちりしたYシャツ姿で登場。おしゃれな服装にも気を遣う姿勢は、若さ、好奇心維持の秘訣かも知れない。そのエネルギーにより、93歳にして難関の2級に見事合格した。
検定に関する本題に入る前に、自身の戦時中・戦後の思い出をとくとくと語り始めた。その体験の中で、「人は本来誰でも平等で、それぞれが何かしらの得意分野を持っているのだと悟りました。それを前向きな気持ちで努力をし、活かしていくことが大切だと感じました」としみじみ話す。
やはり、その頃の体験がその後の人生に大きく影響しているようだ。定年後も世の中のために自分が役立てることを意識し、選挙管理委員長や地域の老人会のほか、多くのボランティア活動に関わってきた。かながわ検定の受験は、新たなチャレンジとして、また年齢を克服するための挑戦でもあった。「高齢なので、自分から積極的にライセンスを何かに利用しようとは考えておりません」と語りながらも、合格通知が届くまで毎日郵便ポストをのぞいていたということは印象的なエピソードだ。(2010.12.28 ヨコハマ経済新聞)