▶白山道「東光禅寺」と畠山重忠公と三浦義明
釜利谷の白山道に東光禅寺があります。東光禅寺Webサイトの縁起を読みますと、鎌倉幕府開幕の功臣・畠山重忠公が1282(弘安5)年開基されたと書いてあります。当時は、鎌倉大塔宮(薬師ケ谷)にあって薬師如来を本尊とし、医王山東光寺と呼ばれていたようです。その後、応仁年間(1467〜69年)に釜利谷郷へと移り白山東光禅寺と改名。当初は、現在の東光禅寺の建っている場所から500メートルくらい奥に入った六地蔵の近くにありましたが、大正12年の関東大震災で本堂や庫裏が倒壊したことを機に現在の場所に移ったそうです。今でも駐車場の奥に当時の東光禅寺の墓地が残っています。
この東光禅寺の門前に開祖の畠山重忠公の供養塔があります。お参りする人が多く花が絶えません。江戸時代に広重が模写した武陽金沢八景略図(金龍院蔵)にも東光寺(東光禅寺)と並んで畠山氏塔が描かれています。畠山重忠公が地域に愛されて慕われていたことが分かります。近隣には息子の畠山重保墓とされる五輪の石塔も保存されています。
畠山重忠公は、1164(長寛2)年、畠山重能(しげよし)を父とし、三浦義明の娘を母として、埼玉県深谷市畠山(武蔵国畠山)に生まれました。1180(治承4)年、源頼朝が伊豆の石橋山に挙兵した際には、平氏に仕えていた父の重能とともに、17歳の重忠公も衣笠城合戦で源氏方の三浦氏に攻め入り一人城に残った当主で母方の祖父の八十九歳と老齢の三浦義明を討ち取りました。祖父の衣笠城を攻めるのは本意ではありませんでしたが、父の重能が大番役で在京していたため、平氏方として働かざるを得なかったとされています。一説には老齢の義明は動けなくなって城に置き去りにされたという話もあります。この時、重忠公は、死を目前にした祖父の三浦義明から何かを託されたのではないかと私は考えています。
頼朝が安房国で再挙して千葉常胤、上総広常らを加えて2万騎以上の大軍を従えて房総半島を進軍し武蔵国に入った時に、頼朝に帰伏して源氏に仕えるようになりました。頼朝の鎌倉入りや富士川の戦いでは先陣をつとめ、鎌倉幕府初代将軍となった頼朝からも厚い信頼を受けていました。頼朝の死後も、重忠は和田義盛らとともに、二代将軍の源頼家を助け政治に参画しました。
しかし、1205(元久2)年6月22日、実権を握った初代執権の北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられ鎌倉にいた息子の重保が殺されました。この時「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との虚偽の命を受けて、わずか134騎の部下を率いて埼玉県比企郡(小衾郡菅谷館)から駆け付けますが、二俣川(横浜市旭区)で数万騎の北条勢に囲まれ部下とともに討たれ42年の生涯を終えました。
この畠山重忠公のお人柄が良く分かる逸話が残っています。
かつて、地頭を務めていた三重県(伊勢国)の領地で、自らが任命した代官が不祥事を起こし重忠公が責任を問われ、幕府に囚われて身柄を拘束されることがありました。その際、重忠公は言い訳一つせず 「申し訳ない。自分に所領を預かる資格などない!」と、七日間、 眠らず、一言も話さず、謹慎し死を望んだそうです。それを聞いた源頼朝は、重忠公の態度と潔さに心を打たれ、すぐに罪を許したそうです。
この事件から、僅か、ひと月後、当時、力を持っていた梶原景時が陰謀で「囚人扱いされたことを恨んだ重忠が謀反を企てている」との虚偽を申し立てました。幕府からの使者が重忠公に真偽を問いただしたところ、「頼朝公への篤きご恩がありながら、なぜ反逆せねばならぬのか」と憤慨。 謀反の意志がないのであれば「起請文」を提出せよ、との命に「自分は言葉と行動を違えるようなことは決してしない。この重忠が偽りを述べる者でないことは、頼朝公が最も重々ご存知のはず。起請文など書かぬ。頼朝公にそう伝えよ!」と拒否し正々堂々と無実を主張しました。それを伝え聞いた頼朝は、後に重忠公と接した際にも、謀反の疑いについては何も触れず、問いただすこともなかったといいます。
まさに剛勇廉直の鎌倉武士の典型と伝えられる逸話です。「吾妻鏡」の中にも重忠公について多くの話が残されています。
「義を重んじて正路を覆み 文武両道全うし 忠良にして私心無く(中略)公明にして寛大 人は其の誠純を敬す」
【参考】
■ 東光禅寺 寺報「HAKUSAN」vol.12 – 2022年秋号
https://www.tokozenji.or.jp/5436
■ 東光禅寺 Webサイト
https://www.tokozenji.or.jp/
■ 畠山重忠公ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/畠山重忠