▶「長島重三郎さん」の研究者との懇談会(6月26日)

大道町内会のホームページのご縁で、大道の名士である長島重三郎さんの研究者の方から貴重なお話をお伺いすることができました。研究内容のご説明の後に、長島重三郎さんのお孫さんにあたる大道町内会副会長の長島實(みのる)さん始め、町内会の役員を交えて意見交換が行われました。研究の成果のご提供、ご講演、大道歴史文化保存プロジェクトの資料調査のご協力をしていただけるそうです。今後とも、よろしくお願いいたします。(廣瀬)

・日時:2021年6月26日 14時〜15時40分
・場所:大道集会所
・お話;真辺駿さん(東京学芸大学大学院 連合学校教育研究科 博士課程)
・参加者:佐藤会長、長島副会長、今井文化部長、加藤さん(文化部)、飯塚さん(西大道)、廣瀬

【感想】
長島實さんが懇談会でお話しされていましたが、重三郎さんは、これだけ社会に貢献された方ですが、家族にとっては普通のお祖父ちゃんだったそうです。寡黙で、子どもを寄せ付けずに別棟の書斎に籠もって書き物をしている姿を記憶されているそうです。晩年は、地域の子どもたちに習字を教えたりしていたそうです。

大道は、大道耕地と呼ばれる田園地帯が広がり、良い米が採れる豊かな土地だったそうです。戸数も、長い間32軒に保たれており、他所から受け入れがたいという風土があったのではないかと推測します。このような環境で子ども時代を送った重三郎さんは、大正デモクラシーの民主化の波を受けて、部落や女性という弱い立場の人たちに目を向けられたのではないかと思いました。

重三郎さんは、89歳で亡くなるまで地域のために働かれたのですが、このモチベーションがどこから来たのか、どのようにして、生涯、それを持ち続けることができたのか、なども究明していただきたいと思います。また、地域の研究をされると言うことですので、地域の発展や人材の育成の寄与していた青年会や庚申講、恵比寿講、無尽講などの活動が、なぜ、近年になって廃れてしまったのか、SNSという便利なコミュニケーションツールが使える時代になって復活させることはできないか、というようなことも調査・研究をしていただきたいと思います。

これから研究が進み、新しい発見があると思いますが、さらに地域や重三郎さんのことが明らかになることを期待します。この研究が、地域社会の発展や、いじめや差別の撲滅に貢献されることを願っています。

■真辺駿さんの略歴
真辺さんは、大学院の5年に在学されています。専門は日本教育史。教育史の中でも在野の篤志家が地域の中でどのようにして教師になっていくかを掘り下げて研究をされています。当時の小学校教師は、学校だけではなく地域の指導者としての役割も担っていたことに注目されているようです。将来は、大学に残って歴史の研究者の道を歩まれるそうです。現在は、長島重三郎さんが残したダンボール3箱分もある日記を読み込まれているということでした。
・論文
【地域社会における生きづらさと小学校教師〜部落問題をめぐる長島重三郎の活動を事例に〜】
http://synthetic-anthropology.org/blog/wp-content/uploads/2019/06/OL13_11_manabe.pdf
【20世紀初頭横浜金沢の地域社会と小学校〜久良岐郡六浦荘村立三分小学校校長平田恒吉に着目して〜】
https://ynu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=9739&item_no=1&page_id=59&block_id=74

■懇談会の概要(真辺さんの資料から抜粋)
1.研究内容について
神奈川県久良岐郡六浦荘村にある三分小学校(六浦小学校の前身)で小学校教員として勤務していた長島重三郎さんを取り上げています。長島重三郎さんは、恩師である平田恒吉校長の誘いで1895 (明治28) 年に三分小学校の代用教員となってか ら、正規の教員養成を受けず独学で正教員の免許を取得して、学校や地域での取り組みのなかで教師になっていった人です。

日露戦後から大正期にかけて重三郎さんは平田校長とともに地域での教化活動に尽力しました。そのような地域社会に対する関わりは、後の部落開放運動や女性の教化活動の着手へと繋がっていくことになります。 重三郎さんは、教員養成を受けず平田校長とともに学校や地域で教育実践をしながら教師となったのですが、重三郎さんの興味は、横須賀の海軍工廠に勤務する青少年の変化や女性の教化の必要性、部落差別といった地域社会の問題に向かって行きました。

私の研究は、近代日本において、重三郎さんが世界の動向に目を向け、 国家の要請を意識し地域のなかで子どもや住民と関わったりするなかで形づくられる多面的な教師意識の形成プロセスを主題に据えています。 長期的な記録として残された「長島重三郎日記」 史料を活かし、歴史的背景や国家に求められる教師像に影響を受けながらも、重三郎さんが地域社会で活動していくにあたりどのように教師として自己を意味づけていったのか、 その形成過程を明らかにしたいと考えています。

2.長島重三郎さんの経歴
1878 (明治11) 年:久良岐郡三分村大道に生まれる
1885 (明治18) 年:三分小学校に入学
1893 (明治26)年:郵便局員勤務
1895 (明治28) 年:三分小学校の代用教員となる(17歳)
1898 (明治31)年:尋常科正教員試験合格
1909 (明治42)年:小学校本科正教員免許取得
1912 (明治45)年:大道青年会会長就任
1922(大正11) 年:地方改善常務委員就任(47歳)
1925 (大正14)年:青和会六浦荘支部長就任
1931 (昭和6) 年:教員退職。 大道区長就任(54歳)
1937 (昭和12) 年:方面委員就任
1938 (昭和13) 年:大道町内会長就任
1967 (昭和42) 年:死去(89歳)
※戦後の活動については調査中

(参考)平田恒吉さんの経歴
1863 (文久3) 年:久良岐郡金澤村に生まれる
1877 (明治10)年:金沢小学校の授業生に雇われる (14歳)
1885 (明治18) 年:三浦郡横須賀小学校へ転任
1886 (明治19)年:三分小学校の訓導
1893 (明治26)年:訓導兼校長に就任 (30歳)
1913(大正2)年:小学校効績者に選ばれる
1915 (大正4)年:死去(52歳)
著書:金澤と六浦荘村時代 1914(大正3)年8月5日 発行

【出典】 長島重三郎 「回想録」 (1947年、 長島家所蔵)、 「六浦荘村団体一覧」 (1912年、 布川義隆家文書、 横浜開港資料館所蔵) より

3.今後の展望など
現在、博士論文を執筆しています。基本的には長島重三郎さんという人物に焦点をあてて研究していきますが、今後は、特に「地域」にこだわって研究を進めていきたいと考えています。
その中で以下のように、理解できていない部分がありますので、さらに調査・研究を進めていきたいと思っています。
① 地域の人びとから見た長島重三郎さんはどのような人物だったのか。地域住民側の史料があれば閲覧したい
② 長島重三郎日記や大道青年団の記録を見ていくと、出てくる人たちとその関係性がわからない部分があるので明らかにしたい

大道歴史文化保存プロジェクトや六浦小学校 150周年行事 (2023(令和5)年)に興味をもっていますので、大道の歴史文化保存プロジェクトにおいて史料整理や保存などのお手伝いもさせていただきたい。史料整理については、神奈川地域資料保全ネットワークの代表の近世史がご専門の多和田雅保さん (横浜国立大学)が詳しいと思います。

※青和会とは:正式名称は神奈川県青和会。当時、社会問題化していた部落差別を融和するための団体。1924(大正13)年に設立され、長島重三郎さんは六浦荘支部長として活動された。
※六浦荘女子修養会とは:女性教化を目的として女性を修養する団体。1928(昭和3)年に長島重三郎さんが設立した。
https://www.soc.hit-u.ac.jp/research/archives/doctor/?choice=summary&thesisID=241
                           以上

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