▶金沢の5つの古道と金沢八景の今昔

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今では、ほとんど埋め立てられてしまっていますが、金沢八景の近くの、今の”君が先”や”小泉(こずみ)”のあたりは、瀬戸の内海と呼ばれる湾でした。野島は江ノ島のように砂州が続いていました。柳町や六浦駅のまわりもすべて海でした。

金沢八景は、かつては、日本三景の一つの松島に匹敵するくらい風光明媚な観光地として知られていました。大山の阿夫利神社に参拝した帰りに金沢八景に寄る、八景経由で鎌倉や江ノ島の観光をする、ということが行われていたようです。徳川家康もこの地が好きで度々訪れていたようです。この湾で捕れた新鮮な魚を東屋や千代本という料亭で食べさせていました。明治以降は、海水浴場や別荘地として賑わいました。新田開発や太平洋戦争、戦後の埋め立てで大きく姿を変えてしまいました。

日本橋は物流の中心地で東海道や中山道の始点となっていることが知られていますが、金沢八景は当時は観光の中心であったので、このように道が交わっていたのだと思われます。この金沢八景に繋がる道は5つあります。大道を通る道は六浦道と呼ばれていました。川の諏訪の橋の近くには、六浦道と浦賀道が交わるところがあります。この辺りは、旅人を泊める旅館がたくさんあって賑わっていたようです。

1.六浦道(鎌倉道)
六浦道は、文字通り、鎌倉と六浦湊とを結ぶ道でした。金沢・六浦は風浪を防ぐ良港だったため、鎌倉幕府の外港として、物流の拠点となりました。六浦や釜利谷で製塩が始まると、朝夷奈切通を通って、鎌倉に塩が運ばれました。六浦道が縦断する大道は、地名の通り当時は大きな道でした。朝夷奈切通は、1241(仁治2)年に鎌倉幕府が六浦と鎌倉を結ぶ幹線道路(六浦道)を開通させるために、山を切り開いてつくられました。この切り通しが開かれた時に広い道に整備され、二間幅(3.6メートル)という当時としてはかなり広い道でした。

朝夷奈切通が出来る前には、六浦から鎌倉に行く道は二つあったようです。一つは諏訪神社の前を通り、尾根伝いに歩いて朝比奈の熊野神社の左側の谷を下って、大刀洗から十二所を経て鎌倉に入る道。もう一つは大道の西の鼻欠け地蔵の手前を右に登り「おおだわら」という所を通り抜けて天園に至り、鎌倉に入る道です。朝夷奈切通が出来てからは、鎌倉へ塩を運ぶ塩商人が切り通しを通って鎌倉に至ることが出来るようになり、大変便利になりました。

2.浦賀道
「浦賀街道は平分村より三浦郡浦郷村に達す」と『新編武蔵風土記稿』が述べているように、この道は六浦から浦郷を経て、浦賀に向かう古い街道です。平分村とは現在の三艘・及び瀬が崎の大部分を指します。大道は寺分村に属していました。

江戸幕府は、江戸湾に入る船舶を管理するため、1616(元和2)年に下田に番所を設けましたが、風波の難が多いのでこれを廃し、1720(享保5)年に浦賀奉行の設置とともに番所を移しました。これと関連して江戸と浦賀を結ぶ陸路、浦賀道も重要度を増すこととなります。

3.金沢道(保土ヶ谷道)
東海道保土ヶ谷宿から、能見堂を経て金沢へ至る道を金沢道と呼びます。江戸市民にとっての身近な行楽地、金沢八景へのコースとして、1659(万治2)年の刊行の『鎌倉物語』は次のように述べています。
「江戸より見物せんと思う人は、先かたひらより金沢へ来て、鎌倉へ行ば見物の次第よきなり」

つまり、金沢八景を鎌倉・江の島とセットにして位置づけています。 景勝の地としてのピークは、文化・文政年間頃からであり、能見堂をはじめ、各寺院や旅亭が競って刊行した「八景案内図」「一望之図」など沢山の刊行物がその留時を今に伝えています。

4.白山道(しらやまどう)
白山道がいつ開かれ、いつ頃から白山道と呼ばれるようになったか明らかではありません。白山権現社が起源と言われていますが、なぜ、白山なのかは不明です。

釜利谷から谷津にかけて石灰分を含んだ白い砂の山がありました。その白い砂を農具や食器を洗うのに使っていました。子どもの頃、バケツを持って、その白い砂を取りに行ったことがあります。この白い山が白山と呼ばれていたのではないかと考えています。(廣瀬)

しかし、この道は少なくとも鎌倉時代中期には開かれたと思われます。金沢北条氏の祖、北条実泰が、六浦庄の領主になったのは1224(天仁元)年と推定され、彼が六浦殿あるいは釜利谷殿と称されたのは釜利谷あたりに住居をかまえていたからだと思われます。

当時の一部分と思われる白山道が現在、手子神社-東光禅寺-白山権現社-白山磨崖仏の前を走っています。その先は住宅や道路の建設のために破壊、中断してしまいましたが、昔は鎌倉まで達していました。

5.野島道
町屋神社から金沢小学校を経て、野島に至る道が野島道です。野島は船路による三浦半島への交通路として、至便な道でした。幕末に至り、相次ぐ異国船の襲来に対応して、三浦半島一帯に、会津藩などの諸藩の配置を命じました。これらに伴い、三浦半島への諸往還のためにこの道が頻繁に利用されました。

【参考】
・金沢八景1/3(横浜金沢の歴史)
https://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/shokai/rekishi/hakken/hakkei/hakkei.html
・金沢の古道と朝夷奈切通
https://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/shokai/rekishi/ikizuku/keikan/oldroad.html
・気ままに街道歩き(金沢道・浦賀道)
http://kimama.life.coocan.jp/kimama2/uraga.htm

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